「くもんの先生」の仕事はやりがいがあり、一生かけてもいいと思った仕事でしたが、16年目にやめることにしました。それには4つの理由があります。
やめた理由その1 テナントが老朽化
借りていたテナントは築50年以上。以前は時々だった雨漏りがどんどんひどくなり、ゲリラ豪雨の時には大惨事に。
耐震基準に合格した建物ではなく非常口もなかった。
除雪装置がなかったので、年齢を重ねるにつれて雪のけの作業がたいへんになってきた。
教室は小学校のすぐそばで、立地条件としては魅力的で実際そのおかげで、たくさんの子どもたちが教室に通っていましたが、このテナントで子どもたちを守れるのだろうか、最近増える天災や事故を考えるとどんどん不安が増しました。
何年も近所に安全なテナントを探しましたが、結局見つかりませんでした。
やめた理由その2 収入が安定しない
仕事によって一か月に必要な収入と言うのは人によって違います。私は生活が変わって、公文の不安定な収入では今後が不安だと感じるようになりました。
教室の固定費(テナント賃料・光熱費・スタッフ給料)は10万円以上かかります。
収入は教室の生徒からの会費なので、一定と言うわけにはいきません。年度末は退会が続きます。その年に小学6年生や中学生が多い年は大量の退会がある時もあります
流動は読めず、努力の及ばない収入減があります。
収入が安定しない状況が続くとかなり不安になります。将来のことを考えると不安が大きくなり、その不安が教室をやめたほうがいいなぁという判断の一つになりました。
教室の近くの小学校の児童数によって年間の生徒数はだいたい決まってきます。少子化によって児童数が減ってくると、じわじわと教室の生徒数にも影響してきます。
やめた理由その3 体力的に不安になってきた
スタッフを数名雇ってはいましたが、教室の責任者である指導者がいないと教室を開けることはできません。
週2回の教室ですが、体調がすぐれなくても無理して出ていかなくてはいけません。
友だちの指導者に頼むこともできますが、みんなも忙しくなかなか気軽には頼めません。
自分が主体でやる仕事はやりがいがありますが、いったん自分の体調が崩れると、生徒にも迷惑が掛かり教室の評判にも関わります。
30代・40代の頃は熱が出ても点滴打って教室にでることもありましたが、50歳を過ぎるとそれがしんどくなってきました。
自分の体調が悪い時は、ゆっくり休める働き方に変えた方がよいのではと思い始めたことが、やめた理由の一つです。
やめた理由その4 公文の事務局に頼りなさを感じた
指導者は普段から事務手続きや、生徒のことなどでも頻繁に地区の事務局とやり取りをしています。
しかし上記の「やめた理由の1から3」の様々な不安材料を相談しても、なかなかしっかりした回答が得られませんでした。難問だったのでしょう。
教室開設の時は頼りがいを感じていた事務局でしたが、教室運営でおこる問題に対しては、どこか他人事でした。担当もころころ変わることから、解決しない問題がどんどん増えていきました。
やはり、指導者は事業主であるので、すべて自己責任です。事務局に協力を求めることはできても最後の自分の進退についても自分で決定しなくてはなりません。
ロイヤリティーを払っているのだから…とちょっとしっくりしないところもあります。
「くもんの先生」はもともと〈創始者の奥さんが自宅で近所の子どもを集めてプリントをさせていた〉ところから始まり、いまでもボランティア的な精神が生きています。
しかし女性の職業として確立させていくためには収入の確保やライフワークに合わせた保障などの整備が今後の課題だと、ずっと思っていました。
「くもんの先生」やめたその後
「くもんの先生」の仕事は子どもたちと一緒に成長できる魅力的な仕事でした。私は子どもたちの声があふれる活気ある教室が大好きでした。
しかし、仕事と言う以上、きちんと安定した収入があり、それで生活して生きていけなくては意味がありません。
力が及ばず収入面や教室のテナントの問題でやめなければならなかったのは、本当に悔しいです。
やめてから、就職活動をしました。
今は、福祉施設で一日5時間の週5日のパートで働いています。
月収は「くもんの先生」の時と同じくらいですが、安定していることもあり、年間のトータルでは今の仕事の方が多いです。
有給休暇もあり、体調の悪い時はいつでも休めます。私が休んでも会社はそれほど困りません。
私が辞めた後にコロナ禍になったので、もっともっと厳しく難しい教室運営になっていると思います。私の力量ではコロナ禍を乗り越えるのは無理だったかもしれません。
気楽に働いていますが、やりがいはありません。「くもんの先生」の仕事楽しかったなぁ~
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